昭和56年5月23日 朝の御理解


御理解 第四十一節
「信心は話を聞くだけが能でない吾心からも錬り出すがよい」


話を聞く事によってそれぞれにヒントと云うものがある。ヒントを得る事によって、その人の信心が育っていくのであり、又は生み出されて いわゆる錬り出されて行くのである。出来るだけ楽でおかげの頂ける手立てはないかと、もう楽な又は割り切ったというか、ドライな考え方で錬り出されたのでは、いかにも自分の心が安らいどる、助かっとるようであっても おかげにつながらない。
 錬り出すその信心が自分の心の助かりとその心の助かりに 形のおかげがとものうて、はじめてその錬り出された事が間違いなく、錬り出されたんだという事になる。間違うとただ自分の心に 云いわけをするとか、いわゆるドライに割り切って自分の楽なほうを取ろうとする、成程それも錬り出すのかもしれないけれども、私はやはりおかげが錬り出される信心につながらなければ駄目だと思う。心が安らいでおります 助かっておりますというて ね、人間のいうならば幸の様々な条件が欠げておるような事では、本当の助かりとは云えない。だからその助かりを願い、その助かりを求めての信心。だから話を聞かなければ分からない。次のヒント おかげの頂けるヒントですら与えられない、そして自分をまあいうなら朝参りやらもせんで、お供えもせんで そして 楽なおかげの頂けれる方法はなかろうかと、それこそ笑話ぢゃないけれども「寝て食べられる方法はなかろうか」と思うた人があった、ね、たら 或る人が、「あるよ」ち云うた。「ならどげなことぢゃろか」と聞いたら朝鮮の山奥に行って寝とくがよか」ち云うた。寝とって食われるち、
まあ朝鮮の山奥に虎が住んでおった時分の笑話 寝とって食わるるね、そういう錬り出し方ではいけない。お参りもせんで お供えもせんで信心のなら難しい道を覚えんでも、守らんでもそれこそ楽に寝とって食べられる方法はなかろうか。それはあるよ朝鮮の山奥に行って寝とくがよかと、そりゃ確かに寝とってから食われるでせう。ね、だから極端な話ですけれども、それによく似たような考え方、例えば合楽で云われる日参教聴 心行。家業の行。ね 本当にそういう信心をくり返させて頂いていよいよ日勝り、月勝り、年勝りのおかげを頂き、神様に少しはましな喜んで頂けるような信心もさして頂いて、信心の真をあらわし、そしてお徳を受けて代勝りのおかげともなるような信心で、なからなければならないという事。
 そういう信心の線にそうた いうなら練り出し方でなからなきゃいけない。例えば朝参りをと思いよったけれども家は晩がおそいけん朝参りが出けないという人はです、そんなら先日秋永英治君に、今毎日日参して来ます。朝参りをしたいと思うけれどもなかなか朝目が覚めない。だから十分づつでも 五分づつでもよいから早く参れるようにしなさい 丁度御祈念か御理解が終わって、皆さんが帰った頃参ってくるんです。けども本気で神様に心を向け出したら、毎日すばらしい御理解を神様から頂くんですよ。ね だからそれが少し有難くなってきた。それでまあ日参さして頂いとるから、まあ兎に角人並みに朝参りが出来なくても、せめてなら御理解だけでも頂けるくらいに例えば参ってくるとか、それから五分づつでも十分づつでも そん為にはね晩おそくまでテレビどん見とってまあそして朝は早起きと云ったような事は出けないから、そこで工夫が要るんだと、ね 例えばもう夕食が終わって九時なら九時には必ず店は閉めてある。もう家族中の者が寝てしもうておるというような、いうなら家のすばらしい家風にもなるような練り出し方をせにゃんね。だらだらしよって朝起きをしたり、又は朝参りを始めようといったって そん時だけは出けようけれど なかなか続かない。それにはそれだけのちゃんと工夫がいる。いうなら吾心からも朝参りも練り出させて お供えでもそうです。なかちゆうこつは神様は知っちゃるけんでというような割り切り方ぢゃいかん。お供えもやっぱり練り出して行かにゃいかん。これこれはと思うたらどうでも「お供えは細めるな」とおっしゃる。だからそういうような事のない たとえ百円のお供えが出ける者は二百円のお供えが出けるように心から練り出さにゃいかん。間違いなしにおかげがともなうち。だからおかげの伴う 自分の心が助かる練り出し方でなければいけない、という事でございます。ね 信心しておってそれこそよい事ばっかりという事はない。お天気のよい日もあれば、いうならば雨やら嵐やらという日もある。昨日は私はあのう、お昼からあそこは岩田屋か、岩田屋ですかね、梅林寺さんの宝物展があっておると聞いておりましたから、一ぺん見たいなあと思うておって、急にしきりに行きたくなった、まだ繁雄さんも居られたから、なら行こうと云うて幹三郎の自動車でまいりました。なかなかそれこそ目の正月をさせて頂いて来ましたが、帰りに初めて、ねずみ取りというのに引っかかった。それも思いもかけない 勿体島の堤防で、あそこは三十キロしか出されない所だそうらしい。ね それが40キロからちこっとばっかりぢゃったけれども四十二キロからオーバーしとったから、今どきの警察官の方達はとっても丁寧で親切ですね。まことにすみませんが しばらくお待ち下さいち まるきり商売人のごたるですばい。私はこれがねずみ取りですよち幹三郎が説明してくれましたから ほう。そしてならおかげ頂いてよかったとこういうから、あのうまあなんですか罰金な納めんでんよかごつなったのち云うたら、いいえそりゃ八千円納めんならんごつなったち云う。私はすぐ思うた。はあそりゃおかげ頂いたばいち申しました。八千。八の字。私はね 信心をさせて頂いておりますとね、どういう場合であってもその前後にね、お礼ば云わんならんような事になってくるんです。昨日もここを下ってから お風呂に入っとりましたら 伊万里から御信者さん方 竹内のお母さんをはじめ五、六人の方達がお礼に出てまいりました。そりゃまあ私風呂は入っとったから 裏に下っとったから 裏のでお茶でも差し上げたんですけれども、私の部屋にはあのう使っておる、あちらの御普請が出けた時に頂いたお供えの座布団がございます。見事な大変素晴らしい綿か入っておるそうですから、それを皆さんにこう皆に敷いてもらうんですけれども、それが一枚が一万三千円だったそうです。それをお供えをした方が十枚お供えさせて頂いた。そして布団屋に行ってそのお供えさして頂くから いくらですかと聞いたら一枚が一万三千円と聞いた時にゃおかげ頂いた こぎる(値切る)だんぢゃない もう有難いと思うてまあ、お供えさして頂いたという話をさして頂いた事でした。皆さんにね。十三ち聞いただけで助かった。ね 例えばお供えをしようと思うて買いに行ったらね 例えばそれは値切ればそりこそまあ、まけなさったかもしれんけど、その時その時の頂き方がですちゃんとその前後に必ず働きが合楽に御縁を頂いとる人は必ずあるです。ねずみ取りにひっかかっても八千円というて有難う出されるような八の字が必ずついておるです。帰って其の事をね神様にお礼を申させて頂いたら〃大きな信心とは〃と頂いた。
 それが大きな信心です。ほうりゃしもうた八千円も取られちからち云うたらもう小さい信心です。なら金光様の信心しよるけん、いや親先生ぢゃから ねずみ取りにひっかかりなさらん事はないちいう事。親先生が乗っちゃるけん大丈夫ぢゃがという そういう考え方は間違い。親先生の上にでもある。雨もありゃ嵐もあるけれどもその受け方がすばらしい。その受けられるように神様の働きがちゃんと前後にあっておる必ず。信心する者とない者は 親のある子と無い子程ちがうというのは、そういう所にも現われてくるんです。ね、ほうりゃおかげ頂いた八千円、そういうおかげを頂いたその心が大きな心ですから、次には大きなおかげが必ずともなうのです。そりゃ本当にね あのう折角信心さしてもらうならばどういう場合でもお礼の云えれという事もちゃんとお礼が云えれるように心掛けておんなさい、お礼を云わにゃおれないような働きがその前後におこっておるから、そこん所を合楽では一つのリズムというふうにも申しますが、そういう体得がだんだん出けていくような心の練り出し方ぢゃなからにゃいかんという事。おかげを頂かん方に練り出したり、おかげを頂く方へ例えば八千円が一万円にも八万円にも広がって行くようなです おかげの頂けれる練り出し方でなければいけない。それも特別こう練り出さんですね、もうその場その場でおかげの頂けれる思い方、考え方が出けるようなおかげを頂きたい。
 吾心からも練り出すがよいという事。それこそ寝とって食べられるような事やらを考えておかげが頂けるはずも又はお徳を受けられるはずは絶対ありません。ね練り出すならば勿論自分の心が安らぐ助かる頂き方。と同時に次にはおかげにつながる おかげの頂けれる練り出し方でなければ いけないという事ですよね。
                      どうぞ